日本人の多くは、「差別」というものを理解していないように思われる。
①新型コロナウイルスの陽性反応が出た人に「近寄らないでくれ」と言う。
②太った人に対して「デブは嫌いだ」と言う。
多くの人はこれらを「差別」と呼ぶだろうが、それは正しいのだろうか。
上記の行為は、非難されるべき行為なのだろうか。
差別とは何なのだろうか。
上記は、差別ではない。
①は、判明したリスクを回避する行為で、問題があるとは思えない。
②は、個人の好き嫌いの問題であり、「デブ」という言い方や、それを相手に伝えることの良しあしはあるにせよ、差別の問題ではない。
差別とは、一言でいうと、「過度な一般化」と定義できると考える。
政治家は腐った人間ばかりだ。⇒そうでない人もいる。
官僚は形式主義、縦割主義、責任回避主義の糞集団だ。⇒そうでない人もいる。
金融機関の一般職なんて、長いものに巻かれたいだけの甘えたバカ女だ。⇒そうでない人もいる。
アメリカ人は合理的で陽気だ。⇒そうでない人もいる。
けっこうそういう傾向があるよね、と思われる、言われている集団でも、100%そうではないので、全員がその傾向を持っていると決めつけては、お互いにとって、社会にとってよくないということだ。それが、差別は悪いものだ、ということの本質的意味だと思う。
お互いの良い機会を、一般化で奪ってしまう。
難しいのは、「一般化」(≒レッテル貼り)は、ある程度効率性に資するということだ。
人間というものは、イメージを持って、ストーリーを持たないと、なかなか物事を理解できない。世界を自分なりに理解できない。
そのイメージやストーリーづくり=一般化(レッテル貼り)という作業なのだ。
アメリカってこういう国だよね、日本ってこういう国だよね、だから今回の外交交渉のポイントは・・・とか、あの会社はこういう会社で、この会社はこういう会社だから、合併に向かないよね・・・とか、一般化で物事は進む。
日本大学より東京大学の方が優秀な学生が多いよね、という一般化により、雇用に優劣が生まれる。そして、それは許容されている。それは、一般化には合理性(効率性)があり、過度でなければ有用だからだ。
問題は、どこまでが有用な一般化で、どこからが過度な一般化=差別なのか、ということだ。
これは、各時代、地域の現実や、歴史、アファーマティブを踏まえて異なってくる。
日本人はたいてい、好き嫌いやいじめを「差別」ととらえてしまう。
風評被害などとマスコミはすぐ言うが、放射能汚染された可能性のある食物を回避するのは、合理的な行動ではないのか。一つ一つ吟味することが現実的ではない以上、リスクがある行為を一律に回避するのは、忌むべき「差別」とは違う。
また、平等をはき違えている人も多い。
男と女は違う。目の見えない人、手足のない人と、健常人は違う。
違うものは違うのだ。生物的に違うのだから、社会的に差異も生まれて当然なのだ。
それを結果平等にしようとするから、ゆがみが生じるのではないか。
機会を保障するフェアネスは必要だが(それが差別をなくすということ)、
結果平等は不要である。