世の中にはいろんな職業・仕事がある。
会社の事務。
俳優。
ダンサー。
シンガー。
作家。
料理人。
マッサージ師。
ドライバー。
土木作業。
スポーツ選手。
医者。
会計士。
弁護士。
教師。
ソムリエ。
介護士。
政治家。
居酒屋のバイト。
等々。
基本的には、学生を卒業したら、何かの職に就き、
その道で一生仕事をしてお金を稼いでいく。
それは、生活のために必要な手段であり、自己実現・生きがいでもある。
生きていくのにお金は必要だし、人に何かを与えることが人の喜びだからだ。
・・・というのが一般論だと思う。
本当にそうだろうか?
なぜそうなのだろうか?
Why?
じゃあどういう職業を選ぶのが各人にとってベストなのだろうか?
どうして職業によってもらえる給料に差があるのだろうか?
どの職業が幸せなのだろうか?楽しいのだろうか?
原始時代(狩猟・採集・農耕開始の時代)は、どうだっただろうか。
狩りに出るのは「成人男性」だっただろう。
だからみんな職業は「狩人」だし、
男子が成長して十分な筋力・判断力がつくころが「成人」だっただろう。
20歳よりも若くして成人したのだろう。
「お金」というシステムはないから、とってきた獲物をみんなで食べるだけだ。
食べるために狩りをする。給料は獲物のシカやウサギだ。以上だ。
みんな狩人という同じ仕事をしているけど、そのスキルや運で違いが出て、
「給料」に差がつく。「給料」が多い人、獲物を多く獲れる人はどうなるかというと、
たくさん食べることができるからさらに力がついてより獲れるようになる、
つまり生き残れる可能性が高くなるし、奥さんになりたい女性がたくさん寄ってくるし、
つまり子どもがたくさん生まれるし、狩りを教えてほしい男性も集まってくるだろう。
こうして集団のカリスマになっていったんじゃないかな。
運という誤差は常にあるが、長期間にわたって他人より獲物がなんだかたくさんとれる
そのカリスマは、何かに秀でているのだろう。何が狩りを有利にする要素なのか。
筋力?視力?瞬発力?身長?ジャンプ力?予測力?場所?武器?仕掛け?魔法?
「ねえねえ、どうやったらいつもそんなにたくさん獲物が獲れるんですか?」
と聞かれて、
「さあ、なんでだろな、よくわかんないなあ、、、」
という自分の直感だけの(長嶋)タイプと、
「ふふふ、それはさあ、こうやってこうやってこうやるんだよ」
と自分の成功要因を語るタイプがあり得ると思う。
前者は、その人は栄えるけど、子どもや集まってきた人に何も技を伝えられないから、
その繁栄はその人が生きている間しか保証されない。
後者で、分析が間違ってる人も同じだ。本当は、弱っている獲物を見分けて狙いを定める
感覚に優れているのに、自分の足の速さが優位なスキルだと勘違いしちゃってる、とか。
つまり、後者で、成功要因の分析がちゃんとしている人の集団が、
その人の死後もその「奥義」(秘伝の書・虎の巻・家訓・マニュアル)
を受け継いで、繁栄する。それが「狩人」という職業のプロフェッショナルとなる。
狩人業界のトップ企業になる。給料も跳ね上がる。
だから、ある職業というのは、その仕事についてうまくいくための奥義・ノウハウが、
その人なり集団なりになんらかの形で蓄積されている、しみついている、伝わっている
ものだということだろう。それは体の動かし方なのかもしれないし、
文書での規定なのかもしれないし、雰囲気なのかもしれないし、
なんらかの慣習なのかもしれないし、いろいろなのだろう。
さてそこへ、農業が出てくると、どうなるのか。
農業という、狩りよりも効率よく莫大な「給料」が得られる仕事が登場する。
そうすると、みんな農業をするほうにいく。人は集まる。
なぜか。
より楽にたくさん稼げるからか。夢があるからか。面白そうだからか。人の役にたつからか。
どれもあり得るだろう。
(そうか、より楽に稼げるということは、効率化というのは、
あまった時間やパワーで、周囲の人にやさしくしたり、何か違う価値を生み出したり、
素晴らしいことなんだな。と再認識。)
そして狩りに集まる人は減り、狩人の「給料」は下がる。
下がるのは、従事者の絶対数が減ったので知恵が減ったりレバレッジがきかなくなって
収穫が減ったり、農業より相対的に低いということだ。
でも、狩りという職業が無くなることはない。
なぜなら、たまには肉も食べたいからだ。
狩りは農業に、完全に代替はされないからだ。
ではその状況で、「狩人」か「農家」か、みんなどっちを自分の職業として選ぶのか。
マーケットサイズは農業の方が大きい。つまり、給料も高いし、採用数も多い。
人がたくさんあつまってにぎやかだ。でも出世競争も厳しい。数が多いのだから、
トップになるのが難しいのは当然だ。
狩りは、マーケットは小さいけど無くなることはないニッチ市場で、
伝統的なノウハウがあるから、環境・テクノロジーが大きく変わらなければ、
伝統的企業がそのまま生き残るし、新規参入者がそこに勝つのは難しい。
また、農業はどちらかというと頭を使い、狩りはどちらかというと身体を使う。
さあ、自由に選べるとして、狩りと農業、どちらを職業として選ぶだろうか。
儲かるほうか、好きなほうか、たまたま機会があったほうか。
企業と書いたが、狩りや農業がメインの時代は、基本的には家族経営が多かっただろうから、
職業選択の自由は、ほぼなかったのだろう。親がやっていることを、
ノウハウと設備とともに受け継いだ。だから、職業選択で悩むことは少なかった。
でも、産業革命を経て都市化した現代、もっと人数が多い「企業」で
細分化されたいろんな仕事をするようになった。トレードが前提で、みんなで分業だ。
そうすると、上記のようないろ~~んな仕事が職業として成り立つようになるし、
どんな職業でも好きに選んでいいことになる。そうすると当然、迷います。
自分が得意なことでたくさん稼いだ方がいいのか、給料低くても好きなことした方がいいのか。
ある程度まで経済が発達し、食べ物に困らなくなり、生活に困らなくなり、寿命がのび、
というところまでは、とにかく自分が稼げる方に行くという選択だっただろう。
需要がある仕事には人が集まり、激しい競争もおこり、そこで勝ち残った人が大きな
富を手にする。難しい仕事に就くには勉強やスキルが必要で、需要に対して
働き手の供給が少ないから給料が上がる。誰でもできるような仕事、
もしくはみんながやりたい仕事は需給の関係で給料が低い。
つまりマーケットサイズと働き手の需給関係でその仕事の給料が決まっていたのだろう。
さて、しかし、経済が飽和した「先進国」は、これからそれがどう変わるのだろうか。
テクノロジーの進展で、仕事がなくなるという。すでにそれは起こっている。
みんな生活に困ってはいない。食べ物がない、家がない、服がない、というわけではない。
どちらかというとみんな、相対的に給料が低い、することがない、ということで悩んでいる。
別に人より給料が低くても、生活に困らなければ何が問題なのか実はよくわからない。
モテない?いい家、いい車が買えない?子どもにいい教育環境を与えられない?
本当にそうだろうか。
することがない、ひまだ。これは問題なのか。人類は労働から解放されたくて、
食べ物に困る恐怖から逃れたくてがんばってきたのに、本当に皮肉だ。
それが達成されたら、やることがなくて生きている意味がわからない病で死んでいくんだから。
上記を前提にすれば、まず、「仕事」は減る。
でも、より安くよりいいものがなんでも手に入るということだから、生活には困らない。
つまり、ひまになる。伝統的な「仕事」なんか、週3日、半日ぐらいすればできちゃうのだ。
のこりの余暇をどう過ごすか。それが「どう生きるか」の意味になる。
ボランティアをするのか。スマホでゲームするのか。スポーツするのか。
読書するのか。哲学を深めるのか。色々それぞれだ。
でも、きもちや知恵、哲学的な話になっていくのだと思う。
つまりね、もはやお金を稼ぐ生活の手段としての仕事・職業なんて、
言ってしまえば「なんでもいい」というか、重要性が薄くなり始めてると思うのです。
大事なことは、「どう生きるか」という価値観、知恵、哲学の問題なのです。
私はとても強く、そう思います。