コロナで色々と大変そうですが、大学受験のシーズンですね。
大学入学共通テストとやらを、センター試験以来久々にやってみましたが(世界史B)、
全然できませんでした。51点。笑
私は受験当時は東京大学に現役で合格しました。
20年前とは言え、やっぱり全然覚えていないなあと若干自分に引くと同時に、
仕事や生活で全然使う知識ではないし(問題文は色々考える意義あるものだったけど、
実際の回答はほぼ読まなくても解けるし、やっぱり知識)、よくこんなにたくさん
意味ないもの勉強して受かったな、と自分に驚いたりもし、
また改めて受験って何の意味があるんだろうと考えてみました。
実際に社会に出て、仕事などで必要なのは、問題文にあるようなこと、
自分の頭でちゃんと考えること、テレビや誰かが言ったことを鵜呑みにしないで、
批判的に、ロジカルに、考えることです。
でも、試験問題はそれが大事だというメッセージを発信していますが、
高得点を取るにはそれとは別の作業が必要になります。
それはいったいなぜなのでしょうか。
その人が本当に考える力があるかどうかを見極めるには、論文を書いてもらって読んだり、
一緒に仕事や研究などをしてみて、その人の考え方や言動をある程度の期間をもって判断する必要があります。
でも、大学や企業や役所の志望者は、いったい何人いるでしょうか。
大学入学共通テストは数十万人が受け、人気企業や役所も数千人や万人単位の人が受験します。
その全員について、ちゃんと思考力を見極めるプロセスを踏むのは、無理です。
仕方なく、膨大な知識や計算を択一問題にして問い、勉強を頑張れるかどうか(インプット)と、事務処理能力(アウトプット)をみることで代替しているのです。
少なくとも、そういう側面・考え方はあります。
特に日本は多様性や発想力ではなく、一直線のストイックさというか、事務能力を評価する
傾向が強いので、そうなります。
意味の薄い暗記試験だろうが何だろうが、頑張れるやつは頑張れる。
事務処理能力が高いやつは何の仕事させても良くできる。
乱暴に言えばこういう考え方です。
そして、大体はそれが正しい。
例外はもちろんあります。あくまで、大体。概ねそういう傾向があるということ。
まったく中身がわからない1万人から誰を事務職に採用するか選ぶとして、
東大卒を選んだ方が、高卒を選ぶより、事務処理能力が高い可能性が高い、ということです。
問題は、一直線の事務処理能力の高低しか測れないということと、
あとは、やはりテストの性質上、テクニックで点が取れてしまうので、
あまりちゃんと考えてこなくても、予備校の技術で点を取れる人が出てくるということです。
でも、そういう人は、大学名は得られても、中身が無いので、研究も、仕事も、うまくいきません。予備校が儲かるだけで、その人も、採用側も、みんな不幸になります。
そういう悲しい問題があるのです。
あとは、試験には、勝負で勝つという試合の要素があります。
脳をスキャンしてAIがその人の知識を判断できても、勝負の判断はできません。
実際に試験会場に出向いて、多くの人と一緒に試験を読んで回答する。
それは、試合です。寝れないとか、体調管理とか、当日の過ごし方とか、全部勝負なのです。
それに勝った人を評価するという社会のメッセージでしょう。
大学受験とはそういうものなので、それに勝った人は、事務処理能力が高そう、
頑張れる人、勝負に勝った経験がある人、という評価をされることになります。
また、そういう人が集まる場所(大学)に行けて、レベルの高い仲間を作ることができる
というメリットを享受します。
個人的には最後の部分のメリットが大きいなと思いますが、
仕事観が明確な人は、例えば弁護士になりたい人は、大学受験なんて無駄なことをせず、
最初から司法試験だけ受ければいいような気もします。