居酒屋でくだをまいてるおっさんから学者まで、
多くの日本人は日本史の話になると、誰と誰がいつ戦って勝ったとか負けたとか、
そういう話ばかりする。
それって何の意味があるんだ?
それぞれの趣味や思い込みで済む話ならいいが、
歴史というファクトにかかわるから、それで済まないケースが多くて、迷惑なのだ。
まずだいたい、時代を遡れば遡るほど史実自体があやしい。
ずっと教科書に断定的に記載されていた「事実」が、いとも簡単にコロコロ変わる。
平安時代なんて全然わからないし、戦国時代だってあやふやだし、
明治維新までは話半分でいいだろう。
なぜなら、昔ほど残っている資料が少ないし、資料の解釈に幅が出るからだ。
しかも、史料に書かれたことが事実という保証はどこにもない。
学者がちゃんと論拠をもって判断しているはずだよなあ・・と信じるしかない。
でも、学者が書いてる歴史本を読むと、それに疑問を持つぐらい思い込みストーリーを
書いてるものが多い。
日本は貴族時代に文字が普及し、世界の最古の文明から1000年以上遅れている。
民衆は読み書きなどできなかった。つまり、史料は権力者や富裕層が書いたものだ。
つまり、政権に肯定的になりがちで、バイアスがかかっている可能性が高い。
そういう認識もなく、さらにもっと悪いことに、大河ドラマや歴史小説という
フィクションを読んで、それをそのまま史実と信じている人が多い。
このようにまず、歴史の事実認識という点で勘違いしている人が多くて困る。
また、仮に事実だったとして、天皇やら将軍やら貴族やら大名やらの政治争いについて、
細かく覚えてそれが何になるのか。何年に誰と誰が戦ったとか、まったく無意味だ。
意味があるのは、時代の農業・経済・民衆・文化等がどういう状況で、
それは何が原因で、結果的に武士階級が台頭したとか、そういうマクロ的・統計的な分析だ。
どんな人間かもよくわからない大名の名前を覚え、その人物を礼賛することは危険ですらある。
オタク的趣味以上の価値は全くない。
ひとりの個人が歴史を変えるのではなく、大きな流れの中で、
そういう人物が必然的に出てくるというだけだ。
つまり、日本人の悪い癖で、英雄を盲目的に賞賛しすぎなのだ。
それは天皇だったり、将軍だったり、総理大臣、社長、タレント、アイドル、歌手、
スポーツ選手、何でもそうだが、気に入った個人を全肯定して何でも従ってしまう。
一神教を危険視して気味悪がるくせに、自分たちこそが最も危険な個人崇拝をしている。
そういうおかしな状況なのだ。早くこのおかしさに気づいてほしい。
諸行無常であり、盛者必衰である。
政治権力、企業なんて、勝った負けたで繁栄・没落を繰り返すものなのだ。
そのひとつひとつの事象を追っても、意味は無い。
そういう意味で、国も企業もゴーイングコンサーンを前提とすることに、問題はないのか。
ガバナンスとはいったいどういう意味があるのだろうか。
環境が変化し、役割を終えた企業は、敗北して解散し、新しい分野に人材を放出するのが、
自然な流れだ。しかし、現代社会は従来の事業で稼げなくなると、全然違う分野の事業を
企業がやりだす。トヨタが家をつくって、ソニーはゲーム会社だ。
そこまでして企業という箱を温存することに、何の意味があるのか。
ファミリーの雇用を維持し、有機的結びつきを維持したいという点だけだろう。
つまり、気心知れた仲間同士でこれからもやっていきたい、バラバラになって
他の業界の人と一から関係つくるのめんどくさい、楽しくなさそう、いやだ、ということ。
それを守るために、社会的な非効率を温存していいのだろうか。
そんな閉鎖性、守るに値するものなのだろうか。
これは労働制度と、日本社会の雰囲気・空気の問題だ。
ガバナンスは、会社制度の問題だ。
これは、組織のトップが個人的利益のために暴走するのを防ぐ仕組みだ。
だから、盛者必衰を妨げるものではない。