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もっちーのせかい

プラセボ

人類は、神話→宗教→資本主義へと信仰対象を移してきた。

共通するのは、何かを「信じる」こと。そこには「プラセボ効果」がある。
妄信でもなんでも、信じることで個々の人間にプラスの効果をもたらすこのプラセボが、
人類にとっての救いなのか、最悪のシステムなのか。

神話の時代、人々は豊穣や飢饉など、農業に拠る社会の中で、大自然の気まぐれの中生きていた。
そこで豊穣など良いことは良い神々の優勢、飢饉など悪いことは邪神の優勢と信じ、
良い神々を応援するために自分達が出来ることとして、「生贄」などを捧げてきた。
そして、善悪や裁判などを、「占い」の類で決めていた。
こう聞くと、何て愚かな野蛮人の社会だろうと感じるが、じゃあどうしてそんな狂った社会だったのか?本当に狂ってるのか?
プラセボ効果を考えると、まだまだ文明化されていない当時の社会においては合理的なシステムだったと思われる。
いくら生贄を捧げたところで、気候はそのおかげで良くはならないだろう。
でも、ずっと生贄を捧げ続けていれば、いつかは気候は好転し、そのとき人々は、「頑張って生贄を捧げ続けてきたおかげだ!」と解釈する。ダメな時は、「生贄が足りないんだ!」と解釈する。
生贄を捧げるには物質的に豊かではないとできない。だから人々は頑張る。こうして神話を信じる人々の社会は「前進」する。
裁判でも、縦にヒビが入ったら有罪で横なら無罪とか、盟神探湯とか、めちゃくちゃなことが行われていた。文書記録も乏しく、裁判しても真実などわからなかったのでそういうシステムをとったのだろう。有罪無罪が50%の確率だとして、半分当たるけど半分外れる。でも、プラセボなど、人々への心理的影響がある。真犯人はその占い裁定システムを信じていれば、怖くなって逃げ出すかもしれない。そうすれば真犯人がわかる。神の前で悪行が裁かれると信じれば、犯罪の抑止力にもなる。だから、「信じる」ことの効果として、結果は半々でも、社会的には微プラスなのだ。

宗教の時代になり、人々は神という概念を軸に、経験的な知を蓄え、それに従って生きるようになった。その地で上手に生きる知恵の結晶が宗教、聖典と呼ばれたのだ。人間関係を良くするためにああしろこうしろとか、社会のためじぶんのためにそんなことはするな、という、まあ民法刑法だ。
現代、資本主義社会の中で、宗教は色濃く残っている。しかしグローバル化の中で宗教を盲目的に保守的に維持することは、思考停止という害悪をもたらすことがありはしないか。
ある地域でうまく生きるための知恵が、国を変え、時代を変えた時に、すべて通用するという方がおかしいだろう。大体は適切なことを言ってると思うが、調整すべき教え慣習も多いだろう。

しかし、なんといっても現代で優勢な信仰は、資本主義、成長、効率、科学、ロジックだ。AIなどまで信仰対象として出てきた。
医者の信仰も根強い。とかく日本人は人を信仰対象としがちだ。天皇とか、スキル高い人とか、社会的地位が高い人とか、推しとか。

邪神を崇めるのでなければ、信じるプラセボがあり、経験則や科学を進めることでプラスもあるだろう。でも、いずれも実は妄信であり、思考停止が様々な弊害を生む。
だから妄信を徹底的に排除してるのがユダヤということだろうか。

こう考えると、何を信じれば良いのか、わからなくもなる。
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