「のだめカンタービレ」では、千秋先輩はとにかく音楽を譜面通りに演奏することを求めていた。
自分で勝手に作曲するな、アレンジするな、作曲者の意図と異なる感情や解釈を込めるな。
反対意見として、演奏家の意図はどうなんだ(無視していいのか、反映したほうがバラエティに
富んでおもしろい)、作曲家の意図なんてわかるのか、つまらない、などの意見もある。
劇団四季では、偉大な作家の作り上げた脚本を、その作品にあるカタルシスを、
どの役者であっても同様に忠実に再現することが求められている。
それが故・浅利慶太先生の考えだ。
だから、四季の舞台では台詞を明瞭に伝える母音法で、はっきりと作品内容を伝える。
テレビドラマみたいに、感情をこめて泣きじゃくって何言ってるかよくわからない、
みたいなことを否定する。
宝塚みたいに、俳優をアイドルに仕立てて、ファンに追っかけさせる商売を嫌う。
それはとにかく「作品」を伝えることが舞台の最重要な役目であって、
それぞれの俳優の個人的感情や、個性なんて、無用だということだ。
作曲家の譜面通りに演奏しろ、というスタンスと同じだろう。
なんとか48とかのアイドルは、作品なんてほぼどうでもいい、「半裸」で人を魅了して
属人的なファンを囲う商売だ。宝塚の類似。
テレビドラマは、ものによるがどちらかというと、感情を込めると称賛される気がする。
「作品自体のカタルシス」というよりは、現代にさまよう何か劇的な感情を表現して、
その「感情」に共感を求めるものだ。
普遍的な正解はどれか、などと論ずるつもりはない。
正解は、時と所によるだろう。
しかし、個人的には、半分ケツを出して男の情欲を煽る集団は低俗であり、
古今東西、良いものは個人にも社会にももたらさないと感じる。
感情を煽るアレンジや演技も、こういった息苦しい現代社会では必要なことも
あるのかもしれないが、基本的には作品自体のカタルシスを求めてほしい。
そもそも、演奏家や俳優の個性って何なのか。
作曲家や戯曲家は作品をつくるプロだけど、彼らは演奏や演技のプロであり、
創作のプロではないはずだ。
基本的には、作品において彼らが個性を発揮する機会というのは、ないと思う。