ベンサムやらミルやらの思想とされ、
「最大多数の最大幸福」が目標だとした功利主義。
改めて考えると、こんな幼稚な考え方はないと思う。
量でも質でも何でも、
人々の幸福をひとつのモノサシで測れて、
合計できるという考えは、根本から間違っていると思う。
幸福、幸福感というのは、それぞれの個人の主観であって、
状態ではない、その人のとらえ方、考え方によるのではないのか。
豪華な邸宅を持ち、財産がたくさんあっても、
それをいつ失うかもわからないと不安に苛まれて生きるのは不幸であるともいえる。
安月給で独身であっても、仕事や家族の過度のプレッシャーや責任に晒されていないのは、
幸福であるともいえる。
モノサシの当て方なのだ。
産業革命が起きて、資本主義の黎明期だった当時、
まだ人類の思想として稚拙で、また、まずは物質的にある程度満たされるために
功利主義を利用してGDPの最大化をとりあえず図る必要があったのかもしれない。
でも、現代の先進国で、こんな最低な功利主義を未だに信奉してるのは、
間違いだろう。
四人が乗ったボートが難破して、食糧が底を尽き、
全員が餓死の危機に晒されていたとする。
このとき、最終的な決断として、最も弱っているひとりを殺して、
それを他の3人が食べ、生き延びたとして、
それを肯定するのが功利主義である。
こんな最低な人間があるだろうか。
この世にその四人しかいなかったとして、
ひとりを殺して生きながらえたところで、
それが何だというのだろうか。
罪悪感を抱え、苦しみながら少々延伸した3人の人生に、
何の意味があるのだろうか。
3人が助かって、社会に戻っていったとしても同じことだ。
少数者を犠牲にして多数が物質的な豊かさを得る社会が、
常に最大の目的であるはずはない。
四人がひとりをも見殺しにせず、
最後まで信じあってボートでみんなで生を全うしたとして、
それを知った社会に与える影響は、どんなものだろうか。
物質ではない、もっと大切ななにか、
人が生きる上での幸福感とは何かについて、
重大なメッセージを与えてくれるのではないだろうか。
だから、そろそろ卒業しませんか。最大多数の最大幸福。
マイノリティを犠牲にする物質的な豊かさの追求。
そうではなくて、それぞれの個人が、
それぞれの幸福を追求する時代。
目に見えないもの、心を見つめる時代。
そういう時代だと思うのです。