社会を信じて、良い行いを続ければ、
たとえそのときその人から返ってこなくても、
まわりまわっていつかどこかから返ってくる、
そうして社会は良い循環をする、
因果応報と呼んだりするけれども、
神を信じるということは、
そいういうことだと思う。
ただ、辛いこと、苦しいことが重なると、
どうしてもそれを信じられなくなるときがある。
誰にでもあるはずだ。
「どうして私だけがこんな惨めな目に遭わなきゃならないの。」
「何にもしてないあの人はあんなにお金があって幸せそうなのに、
こんなに頑張ってる私がどうしてこんなに貧乏で苦しいの。」
そうなると、社会の破滅を願うようになってしまう。
テロや、無差別殺人みたいなのは、そういう事例だと思う。
しかし、何十億人という単位の人間がいると、
社会全体は信じられる好循環をもったものであったとしても、
個人としては、いくら本当に良いことをしても、悲惨なことしか起きない、
という単なる「不運」な人が、確率的にほぼ必ず現れるだろう。
一方、テクノロジー・経済の発達は、個人の持つ力の増大を意味する。
昔はせいぜい包丁で周りの人を何人か刺す、程度しかできなかったことが、
マシンガンで何十人殺したり、爆弾テロで何百人殺したり、
生物兵器で何万人を恐怖に陥れたり、サイバー攻撃でハイジャックできるように
なるかもしれない。というか、なっている。
極端なことを言えば、全ての個人が核爆弾のスイッチを持ったら、
誰かがそのうち絶対それを押して、人類は滅びるだろう。
そういう状態に近付いているのではないか。
人口が増えて、テクノロジーが発達するとは、そういうことではないのか。
統計的・確率的に考えて。