プライバシー権という概念が進化して、
昨今は自己情報コントロール権というようだ。
自分に関する情報を、出すなり隠すなりの自由は自分にある。
まあたしかに。
プライバシー権は昔から、有名人の私生活をメディアに暴露されるとか、
そういう場面で有名人がやめてくれと主張することが多かった。
でも、べつにどんどん暴露してもらって、
それで視聴率がとれてお金がもらえるならそれでいいという有名人もいるはずだ。
だから、「必要以上にさぐれない」という含意がある「プライバシー」ではなくて、
「自己情報コントロール」なのだろう。そりゃそうだろう。
そしてスマホやPCが普及した現代情報化社会、
個人情報保護法をつくって、大企業やグーグルみたいな企業が集めた情報の活用に、
制限をかけている。自分に関する情報を、勝手に使わないでほしいという人が多いから、
企業にそうさせないということだ。
自己情報をコントロールしたいという自由のために、
企業の個人情報を活用したいという自由を制限している。
しかし、「憲法学読本」には、「判例は、自己情報コントロール権について、
憲法上の権利として承認すること自体慎重」と書いてある。
意味が分からない。
憲法上の権利、自由って、裁判所に承認されないとないのか?
憲法に明示されないとないのか?
自己情報コントロール権は保障に値するような権利ではないのに、
なぜ企業の情報活用権を国は制限できるのか?
自己情報コントロールも企業の個人情報活用も、
個人の自由とか人権とかそういう話ではなく、
あくまで私人間の話だから性質が違うということ?
たしかに、情報と言うものは、コントロールできるか疑わしい。
1枚しかない書類を管理することを想像すると、コントロール出来そうに思えるが、
ネットで写真が出回ってコピーされまくったら回収は不可能だ。
また、人の頭に入った情報は消せない。返却もできない。
自分が行動して喋っていることについて、周囲の人に対して、
見るな聞くな記憶するなと言ったところで、
それは無理な話だ。
そう、情報のコントロールなんて、無理が多い話なのだ。
たとえば、身長が低い人が、「身長の自由がある!俺を180センチにしろ!」
と国に訴えたところで、無理な話であることと、本質は同じだと言うことか。
そもそも不可能であることは、自由とか権利とか、そういう話ではない。
そういうこと?