人の内心ってのは、どんなに観察してもよくわからないものだ。
特に男にとって女は謎だ。
時代が違う若者と老年も、なかなか分かり合えない。
本人だって自分の内心はよくわからない。
頭の中で考えてることなんて、昼飯は何にしようと考えてたらセックスのことが浮かんだり、
支離滅裂というか複雑極まりないし、
特定の女の子のブログを日々チェックしてる自分に気づいて、ああ、自分はあの女のことが気になってるんだなとはじめて自覚したりするし、土日ずっと家でゴロゴロして、日曜の朝早起きして仕事の出かける自分をみて、ああ、自分は外に出て人と関わりたかったんだなと自覚する。
内心ってなんなのだろう?
同じく、性格ってなんなのだろう?
という問いはまた後日。
いずれにせよ、本人ですら自分の気持ちをよくわからないのに、
他人などわかるわけがない、と思っていたほうがいい。
いや、「内心自体」を推し量ろうとするからわからないだけで、
行動から内心を推定すれば、逆に割とわかる。
本人も自分の行動で自分の内心を判例してるのだから。
OCのサンディが、「社会が見るのは、その人が何をしたかだ」
と言っていたのがずっと印象的だったけど、ほんとうに本質をついてる。
刑事裁判の内心だって、行動から判断されるだろう。
好きだとか愛してるとかいくら言っても、行動が伴っていなければやがて破綻する。
逆に行動ができれば、自分が相手にどんな感情を抱いていようと、愛を与えることはできる。
それが型の力だ。
「おはよう」と形式的に言えば、嫌だと思ってる奴ともギリギリ関係が保てる。
これが形式主義の力だ。儀式の力。
まあ、それも行き過ぎると腐って形骸化する問題があるのだが。
結局、これも実質と形式のバランスということか。
だから、心を変えれば行動が変わる、と言うよりは、
行動を変えれば心が変わる、なんだろうよ、人間は。