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もっちーのせかい

自信と自己肯定の違い

自信って、経験を積んで、成功を積み重ねて、勝利しないとつかないと思ってた。
半分正しくもあり、半分間違ってもいると、改めて思う。

投資銀行のバンカーで、兆円規模のメガディールをチームヘッドとしてハンドリングする自信は、今の僕にはない。それは、ベテランバンカーにはあるだろうし、実際に、うまくやる(ディールを適切に仕切る、稼ぐ)確率・期待値は、僕より彼らの方が高いと思う。

錦織圭は、日本国内の大会で優勝する自信はあるだろうけど、グランドスラムで優勝する自信は、それよりは無いかもしれない。


だとすると、自信って、あるゴールに対する自分の達成度の期待値ってことになるのかな。習熟度というかね。そういうことであれば、その分野のスキルが高いほど自信があるし、何度もゴールを達成しているほど自信があるし、期待値は高いだろう。長年やっていることもそれにつながるかもしれない。

未開の分野はどうだろう。新しい事業を始めるとか、開拓するとか、新しくできたスポーツやゲームで勝つ競争の場合。それに自信がある人はいるのか。自分は絶対成功する!とその初めての分野で思うことは、自信過剰で害悪なのか。新しい分野に何度もチャレンジしていて、何度も成功している人がいたら、次の新しい分野への挑戦にも、自信があるかもしれない。でも100%なはずはない。だってあたらしいことなんだから。例えばジョコビッチが新種の「アイステニス」なんかにチャレンジするときも、かなり自信があるかもしれない。自分の自信がある分野に近いことだから。

だから、程度問題だけど、何かをするときに100%の自信って、期待値という意味ではありえないし、でも似たような経験をしているなら、ゼロでもない。バイオリン奏者がいきなり戦略コンサル行っても自信ないだろうし、銀行の頭取が土木工事現場行っても自信ないだろう。でも、投資銀行バンカーが事業会社の財務部門に行くのはそれなりに自信があるだろうし、製薬会社Aの開発から製薬会社Bの開発に移るのは、それなりに自信があるだろう。そういう意味では、事務職なんて全部スキル的には似たようなもんで、新しいことのチャレンジに大事なことって、情熱の部分が大きいのかもしれない。あとは人間としてと、ビジネスパーソンとしての本質的な基礎。考え方。コミュニケーション。

 
で、その自信(ゴールに対する自分が思っている期待値)と、自尊心・自己肯定って違うと思う。自信は、そのゴールに向かって習熟しないとつかないけど、訓練して経験しないとつかないかもしれないけど、自尊心・自己肯定って、生まれたときから誰でも持てるものなのだと思う。生きていればみんなが持てるもの。何にもしなくても。ただ生きているだけで。
日本のマジョリティというか、古い価値観は、生き方を指図する。価値観を強制する。人はこうあるべきだ、と。世間も、親も、学校も、会社も、それを押し付けてくる。その考え方に染まり、その価値観で良しとされている状態にならないと、自分はダメ人間だとみんな思う。それで苦しかったり、辛かったり、自己否定したり、うつになったり、自殺したりする。
そうじゃなくて、生き方や価値観は人それぞれなのだ。それを強制する権利はないし、される必要もない。無視していい。そんな親や世間や会社や政府は。私はそれを、「悪」だと思う。征伐されるべきだと思う。若い人を中心に、多少変わりつつあるが、制度や多くの人はまだまだ旧態依然のままだ。

だから、みんな、生まれた瞬間から胸を張って自分の好きなように生きればいい。自分の価値観で、自分の人生を生きればいい。自分の人生を自分で謳歌すればいい。親も、世間も、政府も、会社も、先生も、自分の人生に責任はとってくれない。「あんたの言った通りに生きたら、不幸な人生になりましたけど、どうしてくれるんですか?」と言ったところで、誰も助けてくれない。そんなものなのだ。だから自分のためにも、相手のためにも、言いなりになってはいけない。自由も責任も、自分にある。誰にでも、自分にのみ、それがある。

当然のことながら、自由に生きていいといっても、じゃあ気に入らない奴は殺しまくって、働かずに毎日朝から飲んだくれてればいいかというと、そういう話ではない。いや、それは、やろうと思えばできてしまうけど、結局は自分が幸せにならないのだ。法でダメだと書いてあることは、それをやると本人が幸せにならないことなのだ。その最低限が書いてある。それ以上の意見が色々と別れるところは、みんなが自由な経済で、トライ&エラーして幸せを探っていくのが一番いいということなのだ。

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