バイオ医薬品でがん治療、iPS細胞で再生医療、等々。
病気を治して長寿を目指す人は未だにたくさんいる。
さらに、生まれる子どもの選別・資質のデザインまでしようとしている。
私は、これらに本当に嫌悪感に近い違和感を感じる。疑問を持っている。
本当に今の時代の日本で、これ以上病気を治して長生きすることが大事なのだろうか。
そこにどれだけ莫大なコストをかけるのだろうか。
どうして長寿=幸せと、そこまで信じ切れるのだろうか。
どうしてこういう資質の子ども=幸せと、決めきれるのだろうか。
どういう生き方をするかは、基本的に本人の問題だ。
寝たきりで孤独でも120歳まで生きたいというのも本人次第。
仕事を全うしたし、人に迷惑をかけるぐらいなら静かに死にたいと思うのも本人次第。
劇団四季の舞台で「この生命誰のもの」という作品を観たことがあるが、
寝たきりになった主人公の自殺願望を、最後は認める内容だった。
でも、基本的には本人の問題だけど、社会と関わっていない人はいないから、
周囲を無視した希望が必ず通るわけではないとも思う。
寝たきりで何も生み出さない、アルツハイマーか何かで意思もない人を、
あと1年生かすのに100億円費用がかかり、介護の人手もつきっきりで必要だとしたら、
必ずしも生かすことが正解ではないと思う。
働き盛りの父親が、生きるのが虚しくなったからと言ってある日自殺をすると言いだしても、
家族はなかなか納得できないだろう。
デザイナーベイビーの問題も基本的考え方は同じだと思う。
ダウン症だったとして、指が1本無かったとして、寿命が10年しか見込めないとして、
それで人生が幸せかどうか決めるのは親ではなくて本人のはずだ。
どうして親が、この子は不幸な人生を歩むに違いないから殺しましょう、と言えるのか。
自分の理想の子どもと違うから、自分の望むライフスタイルと違うからその子を殺すのか。
だとしたらその親は間違ってる。狂っている。それが普通の親だと言うなら、
その社会が狂っている。
そんな自分本位の親は、いくら子が五体満足で容姿が端正で賢くても、不幸になるだろう。
なぜなら自分の幸せの中でしか子をとらえていないからだ。
価値観を、幸せを、子に押し付けているからだ。
自分の人生は、自分で決めるものだ。
憲法が、個人の尊重と、それぞれが幸福追求する権利を重視しているというのは、
そういうことだ。親や社会が決めるのではなくて、何が幸せか、自分が探すのだ。
それが人生なのだ。そしてきっともはや現代、長生きすることが幸せなのではない。
「種」の観点からしても、個体が無駄に長生きすることは疑問があるだろう。
自然淘汰の考え方からすれば、エラーを含んだ多様な子どもが生まれて、
環境適応した個体が繁栄していくとすれば、子どもの数と多様性、
そして世代交代の速さが大事なはずだ。
個体の長生きも、デザイナーズベイビーも、その「種」の繁栄に反する行為だ。
「種」よりも個体が大事という考え方もあろう。
でも、それは長い目でみれば「種」の没落を早めるとすれば、
本当に社会的に賛同される考え方なのだろうか。
逆に、人間なんて最低な生き物だから、さっさと滅びた方が世界のためにはいい、
という考え方にたてば、神様がそう思うなら、
個体をのばして「種」を滅ぼすのかもしれない。
そういう、個人と合せて、「種」としての人類全体、他の生物・世界を含めた
繁栄を考えていくことが、これからの社会に重要なのではないのか。
それこそが、サステナビリティとか、環境問題とかの本質ではないのか。