日本では贈与というものが多いらしい。
そしてそれは、基本的に親族間で、相続とか遺産分割とか、
そういうこと絡みで行われるらしい。
海外で行われる寄付とは、目的が全然違うのだ。どうやら。
海外で寄付とか、ユダヤでのツェダカとかは、全然知らない赤の他人に
対して行う喜捨である。生活もままならない苦しい人に、
本人に恥をかかせぬよう最大限の配慮をして、
自分の見栄のためでもなんでもないから当然大々的に寄付者として名乗ることなどせず、
隠れてそっと寄付をするのである。
それは、そういった寄付行為が神の御心だからである。
愛を与えるという行為が、自分を幸せにするのである。
その根底には、どうしても完璧にはいかない社会システムの中で、
歪みに陥り、破産する人はどうしても出てくる。
そういう人たちを見捨てないことが、
社会全体にとって良いことだという考え方がある気がするのだ。
一方、日本人の「寄付」(≠贈与)は、パフォーマンスの面が強い。
正直言って、ロクでもない行為であることが多い。
どこかの施設に車いすを寄付しました!とか、
被災地へ○○億円のぎえん金を出しました!とか、
企業は言い訳と横並びとパフォーマンスのために「寄付」をアピールする。
やらなきゃならない雰囲気だからやる。
やることでの喜びとか、そういう話じゃない。
「寄付」を集める側も、なんのことやらわかってない子どもを利用して、
大きな声で懇願させてお金を集め、使途も結局よくわからない団体が多い。
それって誰が幸せになってるんだろうか。
寄付をもらう側も、いらないもの、つかえないものを一方的に送りつけられて
困ったり、役に立たなかったり。
なんだか日本の「寄付」は、本当に言い訳のための形式になっている気がする。
贈与は、寄付とは全然違う。
これは、親が子に自分の資産を承継させるものだ。
赤の他人に喜捨するとは真逆で、
身内の資産を流出させたくない、内輪で囲いたい、という閉鎖的なものだ。
誰に資産を承継させるかは、自分に対してどれだけ「恩」を働いたか、
という関係で決まる。「忘恩行為」があった場合には贈与契約は撤回できる、
という思想にそれがよくあらわれている。
つまり、子が親の元に一緒に住んで、老後の面倒をよく見て、
いうことを聞いていたら、一番そうしてくれた人にたくさん財産をあげましょう、
という話だ。大きくみれば、全然一方的な「贈与」=片務契約じゃない。
そういう世話が前提になってるんだから、あわせて双務契約だ。
だから、約因が無いと言って否定される契約になってない。
大きく見れば「恩」と「財産の贈与」で約因があるのだ。
英米法では約因が無いと、つまり対価的・双務的関係にないと「契約」にはならず、
法的保護にあたいしないとされる。
つまり、寄付は自分の愛で、自分のできる範囲で自由にすべきもので、
強制されたり拘束される性質のものではないということだ。
贈与はそうではない。家族関係の中でのお互い様の契約の一部なのだ。
だから契約として保護されるし、強い効力を与えられている。
問題はこれが、日本の現状に合っているのかどうかだ。
まあ、贈与がなじむような家族関係の人たちには贈与契約を保護して、
あまり関係ないような現代的な人間関係の人たちには贈与契約を保護しない
(親の世話をしない子の分け前は減る)ということでいいのかなあ。。