異常。病気。障害。LGBT。奇形。マイノリティ。犯罪者。悪人。
海外のドキュメンタリーで、脳性マヒの「障害者」がインタビューで
「異常って何だと思いますか?」
と街で質問して、質問された人が困っていた。
インタビュアーは、
「初めて僕に会った人は、僕から逃げ出すか、僕のことを殺したくなるんです。」
と言っていた。
海外でもそうなんだな、と思った。
異常って、本当に何なのか。
正常でないものが異常。
だったら正常って何か。
手足が二本ずつあって、二つの耳で聞いて、一つの口で喋るのが正常。
手が一本しかなかったら異常。耳が聞こえなかったら異常。話せなかったら異常。
圧倒的に多くの人が持つ形質が正常で、そうでないものが異常だと定義すると、
そういうことになるだろう。
でも、それは、統計的な確率の話だけで、善悪とか、正しいとか間違ってるとか、
そういう価値判断は入ってない。はずだ。
だから、「正常」という言葉がミスリーディングなのかもしれない。
それは、「正しい」のではなくて、「多い」だけだ。
例えば、IQ200を超える人は異常ということになるが、
多くの人はそれを悪とは思わず、歓迎し、尊敬する。
逆に、IQ50ぐらいの人も異常で、しかし世間はその存在に否定的だ。
120歳ぐらいまで生きる人も異常だが、世間からは肯定的に見られ、
10歳ぐらいで死ぬ人も異常だが、世間からは否定的に見られる。
つまり、異常=悪ではない。
異常はあくまで統計的に少ない値というだけで、価値判断は別途あるということだ。
では、その価値判断の是非を問おう。
世間から否定的に見られる「異常」である、
低いIQや、短い寿命や、身体機能の欠陥や、病気や、、、は、
なぜ否定されるのだろうか。
そういう人が嫌いな人はいるとして、それはいいとして、
社会的にそれを排除するシステムや、親がそういう子を排除するシステムは、
許されても良いのだろうか。
言い方を換えると、そういう異常者は、存在する権利がないのでしょうか?
はっきり言ってしまえば、過去、古今東西、
そういう異常者の存在は否定されまくってきたのが人類の歴史だろう。
それは、文明やテクノロジーが低い段階で、十分な経済的余裕がない社会では、
自分で自分のことができない、生きれない、仕事できない、稼げない、子どもを産めない、
そういう人間は、お荷物でしかなかったからだ。
他人の助けがなければ生きれない。他人が生産したものを消費するだけ。
それは否定されても仕方なかったのかもしれない。
①雪山で遭難したとき、負傷したひとりを切り捨てて先へ進まなければ、
全員が凍死してしまうかもしれないので、そのひとりを切り捨てる。
②貧困にあえぐ夫婦に障害児が生まれたとして、
とてもコストをかけて育てる余裕がないから捨てる、殺す。
①は、それなりに納得感がある。
本当に全員の生存が厳しい状況。
その中で、負傷したひとりを見捨てることでみんなが助かるなら、
そういう選択になるだろう。
これは、本質的には、短期的なコミュニケーションより、
確実な種の存続・繁栄が重要だと人間が思っているということだ。
②は、怪しい。
本当にその子を育てるのに、正常な子と違うコストがかかるのか。
それは自分たちの生活が破たんするほどのことなのか。
そもそもそこまで貧困な人が子作りをすること自体が間違っていないのか。
殺人を犯すなら、最初から子をつくるな、と。
「世間体」を気にしているだけではないのか、と。
現代社会では、少なくとも現代日本では、全体でみればその異常者を養うに足る
富はある。十分にある。みんな贅沢すぎるぐらいだ。
だとしたら、生産できないからといって異常者を排除するのは間違っているのではないか。
異常者が存在することの価値にもっと目を向けてはどうか。
そもそも、異常者だって人なんだから、生産できないからといって、
本来は誰だって殺したくないはずだ。殺してはならないはずだ。
社会が大丈夫なのであれば、個々の人間の生き方や幸せは個々の本人が決めるべきで、
というか本人しか決めようがなくて、他人が本人の生き方や幸せを決めようがないわけで、
責任など取れないわけで、異常だろうが寿命が短かろうが、手足がなかろうが、
生まれたら生きる、しかないと思うのだ。
こういう状況では、異常者が生きる権利があるかどうかという問いには、
当然イエスという答えになる。
つまり、胎児の出生前検査をして、ダウン症だと思ったら中絶するというのは、
間違っている。親は間違った殺人を犯している。ということになる。
親がダウン症の子を持つことの「世間体」を気にするという意味では、
そういう世間体が間違っているし、それを気にすることも間違っている。
自分たちの経済的負担になるという意味では、車のグレードを下げるとか、
家のグレードや衣服のグレードを下げるとか、その程度のことで子を殺すという
ことの意味をわかっていないので、大きく間違っている。
何より、ダウン症の子が不幸だと思うのであれば、最も間違っている。
幸せかどうかは、本人次第なのだ。いや、生きていること自体が幸せなのではないのか。
少なくとも、染色体に異常があるから、寿命が短いから、見た目がこうだから、
という理由で、不幸と決めつけて殺す権利が、親にあるわけがない。
とりわけ経済的に飽和した社会では、何が幸せなのか、どう生きたらいいのか、
そんなことわかる人なんて、いないのだ。
それを高度成長期バリにわかっていて、こうした方が良い、こう生きた方が幸せだ、
こういう人生を歩んでほしい、こういう人になってほしいと親が願い、
そうでない子を殺したり、遺伝子操作してそれに近づけるという行為は、間違っている。
もはや、そもそも、これ以上人口が増加することは、良いことではないのかもしれない。
これ以上寿命が延びることは、良いことではないのかもしれない。
これ以上美味しい食べ物ができたり、気持ちいいことが出現するのは、
良いことではないのかもしれない。種の存続にとって。
そもそも、種の存続が絶対的に良いことなのかも、そんなことはよくわからない。
良いも悪いもなく、ただそうなっているだけだ。現実が。世界が。
まあそれを言い出すと、異常値を排除すること自体が良いも悪いもなく、
個々の判断でやればいいじゃんという話になるのか。。。
しかし社会全体で余裕がある以上、異常者の社会からの排除、
もしくは親による排除は、間違った殺人になると、僕は思います。
追:
ただ最近は、「何でもアリでしょ、多様性でしょ、個人の自由でしょ」、
といって、じゃあデブもよし、何にも勉強しないのもよし、
働かないのもよし、風俗や酒におぼれるのもよし、
挙句の果てにテロもよし、盗みもよし、暴力もよし、、、
となっている風潮もあると思う。
それはそれで、大きな勘違いだ。
異常者も受け入れる社会であることと、
「なんでもあり」ということは、まったく別物だ。
なんでもありではない。
少なくとも、他人の権利を侵害できない。
だからテロや盗みや暴力はダメ。基本的に。
そして、自分が幸せになるためという意味でも、
実はなんでもありではないケースがほとんどだ。
なぜなら、人間はそんなにすぐには変わらないからだ。
文字文明が出来てから数千年、
二本足で歩いてから数百万年、
その長期で築かれた習性・習慣は、そう簡単には変わらない。
だから、聖書や法律や言い伝えで言われているもののうち、
人間の根本的な部分に関わる部分は、そのようにした方が幸せになる確率が高いと思う。
例えば、個人の自由で何でもありといって、
酒におぼれたり、性欲におぼれたり、ひとりぼっちで生きたり、
ひたすらゲームをやりつづけたり、好きなように食べて太ったり、
それは自由かもしれないけど、なかなか幸せにならないと思う。
本人だってわかってるけど、別の原因があってそれをやめられない、
依存から抜け出せないことの理由として、「個人の自由、多様性」を
持ってきている人が多く出てきたと思う。
それは、違う気がする。