ドキュメンタリーでヨーロッパの山の中の田舎道を歩き、
村の人々と折に触れ会話をしていた。
ヨーロッパの田舎の人々は、老いも若きも、
その土地が好きで、人が好きで、食事や生活が好きで、
だからそれを守って暮らし続けていきたいと言っていた。
伝統を守っていきたい、と。
田舎を捨てて出て行った人も多いけど、
いったい幸せってなんなのでしょう、
みんなが戻ってくることを願う、と。
日本人の多くが言ってることと同じだと思った。
歴史ある安定した地の人ほど、
田舎の人ほど、
同じことをいうと思った。
私は日本の山に囲まれたド田舎で18年間育ち、
そして東京に移って18年間暮らした。
田舎暮らしは、、、嫌だった。
親の関係も色々あると思うが、
田舎は退屈で、日々変わり映え無く、閉鎖的で、
人が少ないし同じ人とばかり関わるし、
飯はうまいけどそればっかりで、
刺激や知性がなくて、本当に嫌だった。
そして、広い世界をみたくて、東京にきた。
東京は、都市は、それはそれで、
嫌なことがたくさんある。
とにかく人が多いので、汚いものや、危険なこと、
人間の悪い部分が渦巻いている。
工事や道路の騒音がうるさいし、コンクリートに囲まれて
暑くて息苦しくて、ときどき気が狂いそうになる。
ストイックな仕事、成長成長で、資本主義はどこへ行くのか、
これ以上稼いで、物質的に豊かになって、どうしようというのか、
もういいよ、と思うことも多々ある。
でも、都市には、色んな人がいて、エネルギーがあるのだ。
色んな人がいるということは、変な人も多いけど、
色んな考え方がそれだけあって、知的な刺激に事欠かないということだ。
(まあ日本はそれがちょっと弱いけど。)
それはまさに、自分が目指していた「広い世界」が、
都市にはあるということだ。
単に景観というだけの広い世界ではなくて。
人はパンのみに生きているわけではない。
キリスト教は言う。
私もそう思う。
生き方はそれぞれだが、
特に何も考えず、おいしい飯のことだけ考えて、
飯の準備に時間をかけて、飯で幸せを感じて、
寝て、また次の飯のことを考えて、、、
という田舎の生活は、一体何のために生きているのか、
疑問に思って、考え込んでしまう。
美味しいご飯を食べるために生きているのか?人間は。私は。
まあ結局、バランスの問題で、都市にも田舎にもそれぞれに良い点・悪い点、
というか特徴があるだけで、何を人生において重視するかという問題なのだ、
ということだとは思う。
ただ、だからこそ、田舎礼賛の論調には反対したい。
食事のためにいきるのは、動物に等しい。知性を感じない。
そこには自然があり、より原始的で、何百万年培った本能に近い、
ストレスの少ないナチュラルな生活なのかもしれない。
都会よりもたくましさがあるのかもしれない。
けれども、ずっとそうだからといって、それが正しいというのは論理がおかしいのだ。
ずっとそうしてきたからリスクが小さい、安定した暮らしである、
というだけだ。リスクをとりたい、刺激を求めたいという人間には、不要なものだ。
しかも、しょせん長くて数千年程度の環境の中で安定化した暮らしにすぎない。
何万年、何十万年単位の環境変化があったとき、
人間のその地の歴史が培った知恵など、簡単に吹き飛ぶだろう。
ストレートにいうと、それぐらいの環境変化があったら、同じ暮らしなんてできない。
そもそも、まったく同じ暮らしなんてしていないはずだ。
文明の発達とともに、車をつかったり、家具や食器や何かだって、
便利なものを使っているはずなのだ。
その恩恵にあずかっておいて、
変化の恵みを享受しておいて、
自分たちがこだわっているものだけは残したい、伝統を守らなきゃ、
というのは、正しくない、とんだわがままなのだ。
アメリカという国は、みんな苦しみながら、結果として
様々なテクノロジーや知恵を生み出して
世界はその恩恵を享受している。
それを使っておいて、都市的成長を批判してはいけないと思うのだ。
繰り返すが、私は都市礼賛をしているわけではない。
都市or田舎、アメリカor日本、そういうAll or Nothingな考え方は、
間違っていると言っているのだ。
だから、「伝統を守らなければいけない」
「幸せは自然とおいしい飯の中にある」
という論調は、違うと思う。