十戒やトーラーや聖書や、名前ははっきりしないかも知れないが、
モーセがシナイで神から預かった教えは、
文書の形と口頭の形で後世に伝えられた。
口頭で伝えられたものを口伝律法という。
大事なことは、なぜ口頭で伝える部分があったのかということだと思う。
ここをよく考えてみたい。
日本でもどこの地域でも、
神話や慣習が口頭で伝えられるのはよくある話だ。
でもそれは、基本的に紙やペンが無かったからだと思う。
ユダヤの口伝律法の場合、明らかに文書で伝えるものと、
口頭で伝えるものを意図的に分けている気がする。
勿論、現代と比較したら紙やペンは足りないから、
全部は書ききれ無かったという部分はあるのかもしれないが、
それだけでは無いと思う。
文書に残すのは、最重要で、かつ、普遍的なことだったのではないか。
地域や時代によってすぐに変わり得ることは、
口頭で伝承した方が、うまくいく。
なぜなら、文書で伝えると最初の教えが残ってしまい、
時代や地域に合わせた適切な形に教えが変化し難くなってしまうからだ。
色んな教えが文書で存在すると、一体どれが正しくて、
どれを信じていいのかわからなくなる。
これは、現代社会への重要な示唆になる。
今や、本や情報は、図書館やネットに文書の形で溢れかえっている。
法令も訳がわからないほど多く、法律の専門家ですら、
引っ張り出して読まないと何が書いてあるのかわからない。
会社にも多くの文書の保存が義務付けられている。
規則や、内部統制や、証拠書類や。
はっきり言って、もう訳がわからない状態になっているし、
それらの膨大な文書の管理に無駄に忙殺されている。
また、そういったコスト以外にも、恐ろしいリスクがある。
あまりに多くの文書が存在するということは、
間違った教えも無数に存在するということだ。
特に、最新刊は本当に要注意だ。
たまたま手にとって読んだ数冊がおかしなことを言っていて、
でもそれを信じて生きてしまって、
人生が不幸になる例は、多いのでは無いだろうか。
何でもかんでも文書にするという現代社会の慣習を、
考え直す必要も、あると思う。
膨大な文書をAIで管理するという解決案も、
うまくいかないと思う。
一部サポートできる部分はあるかもしれないが、
機械に価値判断はどうやっても絶対出来ないからだ。