法律で市民をしばったところで社会がうまく回るわけじゃない。
契約で従業員をしばったところで会社がうまく回るわけじゃない。
結婚という契約でお互いをしばったところで夫婦関係がうまくいくわけじゃない。
だったら法律や契約って何のためにあるんだろう。
あるときに決めたことを文書にして残して、約束の内容を確認して、
違反した場合の罰則を決めて、約束の安定を図るものか。
子育てとか、経済取引の安定を重視して、社会全体での「繁栄」を図るための方法。
だとすると、移ろいゆく人間関係や、会社同士の関係、経済状況、社会状況について、
無常であるものに対して、無理やり固定化・安定化を社会が強制しているものってことになる。
法律や契約とは、そういう性格のものなのか。
大昔のいちばん最初の「契約」は、神と人間の約束ごとだった。
それは石板に刻まれた言葉だったり、聖書だったりした。
そこには、こう生きろとか、罰則とか、書いてあった。
それは、人間が幸せに生きるために、けっこう普遍的なことが書いてあって、
それを守ることは、けっこう人間が幸せになることにつながっているんだと思う。
次の「契約」は、圧政をしく権力を倒す市民の革命のとき、
権力に対して力の濫用を防ぐための仕組み、選挙や政府や議会といったガバナンスの
仕組みを文書化して守らせるためのものだったと思う。
これも、国家という仕組みが続く時代においては有用なのだろう。
でも、聖書の「契約」ほど普遍性は無いと思う。
次は、産業革命後に会社というものが発展して、会社同士の取引関係や、
株主や経営者や従業員、取引先、銀行といったステークホルダー同士の
関係を、経済がフェアに円滑に回るように定めたものだったのだろう。
商法、会社法。
これも、国家を規律するルールより、さらに変化すべき速度が速いのだろう。
つまり、より単位が小さかったり、変化する振れ幅が大きく速度が速いことほど、
法律や契約による固定化になじまないのだろう。
個人はその最たるものなはずだ。個人の人間関係なんてすぐ変化する。
すぐケンカしてすぐ付き合ってすぐ別れる。
でも、べつにそれでいいんだと思う。
でもでも、結婚だけは二人の人間の関係の固定化を図る。
なぜか。
子供のためか。
二人のためか。
社会のためか。
まあよくわからないけど、法律や契約がそういう目的で存在しているとすると、
その種類によるけど、普遍的ではないし、経済社会や個人を規定するものほど
形骸化するスピードが速いし、ITの時代にそもそも法律や契約が役に立つのか、
甚だ怪しいと思う。最先端の世界では、もうそんなものは害悪でしかないのかもしれない。
そしてとにかく、法律や契約に従順に従うことが目的化している日本人は、
やっぱりおかしいと思う。