何事も、長期戦を戦うには、「正しいフォーム」がとっても重要だと思うのです。
音楽家やバレリーナも、独学で変な癖がつくことを最も危険と判断し、
まずは先生に教わって基礎を身に付けるそうです。
スポーツも、へんな走り方でずっと走ったり、ラケットを振っていたら、
そのうち故障するのでしょう。
それは、基礎の大切さは、ビジネスでも、単に生きていくうえでも、
人間に共通しているのではないかと思います。
どんな価値観をもって、どう生きてもいい。
さらにその前提となる、フォームがあると思うのです。
子供を虐待したり、アルコールやドラッグ中毒だったり、
不仲で家にいなかったり、全くお金がないとか、色んな親がいます。
親がいない場合もあるでしょう。子に依存する親。支配する親。
そういう「正しくない」親の元に生まれても、子は親を選べませんので、
ちゃんとフェアに社会に入っていけるように、全ての子に「正しいフォーム」を
身に付けてもらうのが「教育」のはずだと思うのですが、
今の、少なくとも日本の「教育」は、全くそういう役割を果たしていません。
・考え方や価値観に正解はない。
・だから、誰かにそれを強制されるのは間違い。
・つまり、親や教師や上司や政府が絶対的に正しいわけではない。
・だから、価値観が合わなければ離れてもいい。孝行や忠誠は義務ではない。
・だから、自立して自分で自分のことを決める。そして責任をもつ。
・そういう自立した人間同士が、お互いを尊重してディスカッションすることが必要。
・なぜなら、お互いを理解するにはコミュニケーションが必須だし、自分では気付かない簡単な間違いを指摘してもらえるから。
・そして、そういう自立した人間同士が、お互い無償で与えるのが愛ということ。
・そして、そう前向きに人類を信じて行動することが、神を信じるということ。
こういう根本的なスタンスが全く話されていない、というか、真逆のことを
子供に叩き込んでいる。それは、もはや犯罪ではないのか?
苦しんでいる子供たちは、どうか苦しまないでほしい。
親を嫌いでもいい。学校を嫌いでもいい。逃げてもいい。
親は正しくない。教師も正しくない。みんなと違ってもいい。
テストの点数が低くてもいい。整列しなくてもいい。おしゃべりすればいい。
サボればいい。偏差値の高い大学に進学しなくてもいい。大企業に就職しなくてもいい。
怒ってもいい。泣いてもいい。手足がなくてもいい。病気でもいい。障害でもいい。
何でもいい。好きにしな。
でも、ちゃんと自分の頭で考えて、前向きに社会を信じて、行動しな。
それで十分。それできっと価値あるビジネスパーソンになれるし、
そうでなくても、生きてるだけで重大な価値があるのだよ。