日本人は年齢を気にする。
さすがに最近は自己紹介で血液型を聞いたり言ったりするノータリン、死語、
はいないが、年齢はほとんどみんな気にする。
ユダヤ人は年齢を気にしない。
老若男女の「らしさ」という概念がないようだ。
何歳からでも何でもしていい。それは、形式的な年齢を気にして何かを諦めることは
もったいなくて、何歳であっても新しいことを始めることや、興味を持つことや、
行動すること、それが人生を幸せに生きるために必要なことと考えてるからだと思う。
それを、死ぬまで若く生きる、と表現している。
見た目のシワをとったりすることではない。内面、生き方の問題だ。
それは、素晴らしい考えだと思う。
最初のユダヤ人であるアブラハムとサラは、100歳と90歳で最初の子を授かった。
これは、現実的にそういう奇跡が起きたと伝えたかったのではなく、
生涯現役で生きるという姿勢の大切さを伝えたかったのだと理解している。
アメリカ人だって、brotherはbrotherであり、先に生まれたか後に生まれたかは気にしてない。
では、なぜ日本人はかくも年齢を気にするのか。
単一的な民族で、あまり外部との交わりがない単調で閉鎖的な社会だと、
例えば稲作だけしてる社会だと、ふつうにやってれば歳を重ねるほどスキルやノウハウが
蓄積して、生産的になり、エラくなるのだろう。
だから歳を聞くと、大体どの程度のスキルか予測がつくということだ。
見た目とか言葉とか考え方が大体同じだから、年齢が一番差がつく要素だったのかも。
そう考えると、日本人が歴史的に年齢を気にしてきた理由は納得できる。
しかし、それが現代の日本人みんなに当てはまるとは思えない。
年齢を何となく気にしすぎて、自分のクビを、人生を、自分で縛ってしまっている人、
多いのではないだろうか。僕もそうだ。
何歳で結婚してもいいではないか。
何歳から起業してもいいではないか。
何歳から新しい勉強をはじめてもいいではないか。
ただ、ひとつ注意すべきことがあると思う。
そうやって、老若男女関係なく好きなようにできるのは、神の前にすべての人が平等だという
実質的な前提があるからうまくいくことだと思う。
日本ではそういう前提がない。
どちらかというと、歴史的な経緯から、お上がエラい、社長がエラい、高齢がエラい、
ということになっている。
そういう前提で高齢者にいつまでたっても好き放題をされると、端的にいうと、
権力を握ったままいつまでも勝手にそれを振りかざされると、
老若男女の自由な人生ではなく、おじさんの自由な支配になってしまうといことだ。
みんながそうとは言わないが、そういう危険性があるといいたい。
いま、相談役や顧問など、企業OBのガバナンスが問題視されているが、
日本には過去から院政の問題もあり、そういう、いったん権力を手にした高齢者が
居座る問題が起きやすい国なのではないだろうか。
そして、これまではその点、権力者の倫理のみにすべてがかかっていた。
ガバナンスは、機関や仕組みとしては機関していなかった。
さてこれから日本の権力者の倫理は信頼できるのだろうか。
外圧でガバナンスを入れられるのか。
ガラガラポンを待つしかないのか。
何も考えてない無責任な医療のおかげで長生きして寝たきりになったり、
ボケてしまったりと言った、さらに困難な問題も加わっている。
一筋縄ではいかない日本の最大の課題ではないだろうか。