富の偏在。貧富の差の拡大。成長資本主義の行き過ぎ。
スティグリッツがテレビ番組で、
問題は低成長であり、その原因は総需要の減少と富の偏在だと言っていた。
低成長が問題だと言う前提には、いまさら経済学者でそれかよ、バカか?
と、スティグリッツの知能とノーベル賞への疑問が一層強くなったが、
その原因はうなづける。
最近、生産性が大事だと言う話がまた盛り上がっているが、
ちょっと見失なってると思う。
問題は生産性ではなく、需要なのです。
個人にしろ、企業にしろ、国にしろ。少なくとも日本では。
物質的に飽和した現代日本の個人が抱える問題の主眼は、
言ってしまえば、暇、なのです。
衣食住に困らなくなった今、人々の関心は余暇の過ごし方であり、
遊びであり、フェアネスなのだ。
どうやったら楽しい気持ちになれるか、どうしたら土日が楽しくなるか、
何を食べたらおいしいのか、どんな運動やイベントをしたら気持ちいいのか、
どうしたら幸せになれるのか。
ひまのやりくりに困っているのに、生産性をあげてより暇になる
インセンティブなんてないのだ。
企業だって、本当はおかしいんだけど、
生産性が問題じゃないのだ。
だって明らかに無駄な人がずっとネットサーフィンして高給をもらってる。
国でみても、生産性をあげたらみんな失業して富の偏在がますます進む。
そうしたら成長、需要は低下するだろう。一体何を言ってるのかと思う。
生産性をあげていかに効率的に上手に供給するかではなく、
需要がもはやないことが低成長の原因なのです。
もうみんな、これ以上物質的に必要なものなんて大してないんです。
だから、GDPを上げるために、生産性をあげるという議論は、頓珍漢だ。
サステナビリティとか、別の目的にためならうなづける。
繰り返すが、私は成長しないことが問題だとは思っていない。
それはまた別の議論だ。
しかし、成長するためには、総需要が増えることが必要なのだ。
もうひとつ、富の偏在は消費を押し下げるだろう。
なぜなら人は、一兆円もってても消費する量なんて他の人と大して変わらないからだ。
まともなくらしができていないぐらい貧困な人に分配した方が、
フローとしての消費は増えて、GDPはあがるでしょう。
さて、総需要が増えることが人間に幸せをもたらすか。
これはかなり疑問だ。
言い換えると、欲望が強く、それをどんどん満たせれば人は幸せになれるのか、
という問いだ。全否定はしないが、基本的にはおかしいと思う。
基本的な衣食住を求める需要は、あっていいと思う。
しかし、現代のエリートさん達が、年収の高さを追求し、
スキルの高さを追求し、どれだけ女遊びができるかを追求し、
ファットで味が濃いグルメを追求し、アルコールの快楽を追求し、、、
というのは、何が幸せかさっぱりわからない。
そのためにみんな苦しみ、欲望は満たせず増幅し、
結局アルコールなり仕事なりクスリなりギャンブルなり性欲なりに溺れる人ばかりだ。
富の偏在はどうか。
アメリカはいま、これに苦しんでいる。
いや、世界がそうかもしれない。テロの根本原因はここにあるとさえ思う。
つまり、あまりにも富の偏在がおこると、誰にとっても良いことがない。
資本主義システムでは、逆転不能だからだ。
富の偏在が極まるとどうなるか。
富が集中している者が殺される、破壊される。革命だ。
もしくは、富の蓄積手段が無効にされる。
つまり貨幣がガラガラポンとなる。
どっちかしかない。
それを防ぐためには、富の保有者が自ら分配しなければならない。
それが寄付だ。それが十分にできるかどうか。