モーガンフリーマンが進行役の、宇宙の番組を見た。
最先端の科学で、宇宙に関する議論がどんどん進んでいる。
時間とは何か。空間とは何か。宇宙の始まりはビッグバンだとして、
その前は何だったのか、最終的にはどうなるのか。マルチバースって何なのか。
結局、ホーキングの本を読んでいたある日思ったことだけど、
宇宙の全貌とか、存在意義とか、人間には到底分かり得ないだろうけど、
仮に分かったところで、一体何なの?それが何になるの?ということだ。
仮に、宇宙とはこれこれこういうもので、1000年後に消えてなくなることが判明しました、
となったところで、はぁ。としか言いようがない。
分かったところで、何にも出来ないのだ。と思う。
その前に、到底分かり得ないという理由は、結局地球の表面という限られた地点から
限られた方法で限られた観測データから仮説を立てているにすぎず、
宇宙は途方もなく膨大なようだとなんとなく分かってきただけで、
実際その1パーセントもわかってないだろうし、今後もわからないだろう。
どんなに数学や物理学やコンピュータが発達しても、
推測、仮説にすぎない。証明のしようがない。と思う。
番組の最後である物理学者がそんな感じのことを言っていて、やっぱそうだよねと思った。
小さな自分たちのちいさなロジックで、宇宙が解明できるという方が傲慢なのだ。
たしかに、大昔よりは地球の様子がわかってるかもしれないし、
月にも行ったかもしれないが、宇宙レベルから見たら誤差みたいなもので、
人間の知ってることなんてほぼ変わらないのだろう。
できることも変わらない。
ホーキングは、ある星の知的生命体がその星を脱出するような文明を築く頃には
その星のエネルギーを簒奪し尽くしてしまうので、結局知的生命体はその星を出られず、
知的生命体同士が出会うこともない、とどこかで言っていた。
そのイメージ、しっくりくる。
結局、僕らができることは、身の回りのことだけだ。
どんな支配者でも、賢者でも、宇宙を解明できないし、したところで大して何もできない。
できるのは、自分のことと、せいぜい家族や、家の周りのことだ。
科学が発達するほど、あまりに宇宙が不明で、自分たちは何にもできないということが
分かってくるというパラドックス。
科学が発達するほど謙虚になり、結局は古代からの宗教の結論に立ち返る。
そんなストーリーの現実味。
宇宙を知っても何もできず苦しいだけ=知恵の実を食べてしまった人間は苦しむ、
できるのは自分とその身近なことぐらい=汝を愛するように汝の隣人を愛せ。
おそろしい程、大昔から結論が変わってない、というか戻ってきた。気がする。
自分のことは、自分にとって重要だ。周囲と楽しくやることも、
子孫を残すことも。それは、本能としては、そうなっている。
他の動物もそうだけど、どうして子孫繁栄したいのだろうか。
仮に子孫繁栄しなくていいとすると、地球上の生命活動が終わる。
まあ、ただそれだけの話なんだけど、宇宙が膨張してるとか、無からビッグバンが
始まったとか、そのへんと繋がりがある話な気がしていて、
神様は退屈だったから、変化を世界にもたらして、それが宇宙で、
宇宙とは変化そのもので、それが時間であり空間であって、
それが地球の上では色んな生き物が栄枯盛衰を繰り返すという形で現れてるんじゃないかと、
最近イメージしてる。宇宙とは、変化である、と。
でまあ結局、宇宙レベルからしたら、人間が何をしようが、いくらどう考えようが、
ほぼ何も変わらない、ということ。ある意味相当虚しいし、生き地獄かもしれない。
人生に意味はないとか、知恵の苦しさにつながる。
でも、自分にとってや、周囲の狭い世界にとっては、自分が何を考え、どう行動するかは、
大きな意味を持つ。自分の細胞の中にマルチバースがあるとしたら、
自分の消滅は宇宙の消滅だ。
汝を愛するように、汝の隣人を愛せ。
科学の傲慢をそろそろ自覚して、過去の知恵に学ぼう。