特に私はプロテスタントではないですが、
クリスマスなのでルターを読んでみました。
「キリスト者の自由」です。
ルターがこの著書で言っているのは、ひたすら、
「ただ信仰のみが正しい」
ということです。
「こういう善行をしなさい」「こういう行いはしてはいけません」
という教えは色々あるけれども、信仰なしにそれを聞いてただ実行するだけでは
ダメだと言っています。なぜでしょうか。
それを説明するためのたとえで、
「良い木は良い実をつけるが、悪い木は悪い実しかつけない」
と言っています。
信仰がない=悪い木である状態で、いくら善行を実行しようとしても無駄だというのです。
たとえば、根が神を、社会を、信じていない人間が、人に喜んでもらいたくて
善行を施したとします。自分を犠牲にして他人に与えたのに、その他人はありがとうも
言わずに去って行った。そしてその人には怒りがわいてきます。
「あんなにしてあげたのに、お礼も言わないとはなんだ!」
これは極めてありがちなケースだと思います。
彼女にたくさんプレゼントをあげたり、労力を割いて付き合ったのに、
あっさり振られたら怒り狂って返金を要求したり、ストーカーになったり、
暴力をふるうことの根はここにあると思います。
要は、善行を行うこと自体を喜びと感じている(=信仰している人)のではなく、
見返りをもらうことが目的となっている(=信仰はしていない人)のだと思います。
それは愛ではなく、ビジネスですね。取引です。
ルターはそういうことを言いたかった。気がします。
で、それに反する贖宥状の売買を批判したり、
ユダヤ人が旧約聖書(ヘブライ聖書)に書いてある教えをひたすら守ろうとする
有り様に疑問を呈したりします。(たぶん)
ユダヤのタルムードには、確かに、「これこれしてはいけない」「こうせよ」
という教えが細かくびっしりと並んでいて、正統派のユダヤ教徒はその戒律を
全部守って生活しなければならないようです。
それは大変な苦労とストレスでしょうが、もしかしたら他人を思う、
神を信仰するという根本の姿勢があれば、細かいことを全部書き出して全部守るという
アプローチは必要ないのかもしれません。
日本人も、この点ではユダヤに近い気がします。
色んな法令が細かく決まっていて、ああせいこうせいと指図しています。
そして個人や企業は、「これはOKだっけ?」「これはダメだっけ?」と、
法令からはみ出さないように日々労力を使って調べて対応する。
それって、なんかちょっと本質を見失っているように見えます。
ルターが言うように、根本的な「正しい」姿勢があれば、
エシックスがあれば、細かい決まりごとの是非をひとつひとつ問う必要は、
ないのかもしれません。