とんねるずが番組で、「保毛尾田保毛男」を復活させたことで議論が活発化している。
まあ、議論といっても、テレビ関係、特にお笑いの方々の発言は、
私が見た中では今のところ「さすが保守中の保守」という考え方しかないですが。
いわゆる、「ポリコレ」に疲れて面倒くさくて反対しているトランプ支持層とほぼ同じ。
乙武さんが比較的まともなことを発言していますが、彼もちょっと違うと思う。
それだけこの分野の話を理解できる日本人が少ないということ。
保毛尾田保毛男の前に、そもそも日本のテレビ局の番組自体が
多くの問題をはらんでいると思いますが、特に報道とお笑いは「保守」が全面に出ており、
要は偏向していて、「公共の電波」とやらが放送していい内容だとは到底思えない。
とんねるずの件については、まず「ホモ」という言葉自体蔑称ですよね。普通に考えて。
そして表現の方向や程度は色々あるでしょうが、やっぱりそういう同性愛者を
バカにしている、気持ち悪いと思っている、と捉えられても仕方ない内容でしょうね。
つまり、こんなのやっぱり論外なわけです。
アメリカだったらフジテレビやとんねるずが訴えられて敗訴して賠償金払うことになるわけです。
チビやデブやハゲやブスを笑う(=バカにする)のも、同じことです。
とんねるずはこういうのが多い。笑いというか「いじめ」。そういわれても仕方ない。
ここで、「笑い」って何なのか。って話になるわけです。なぜ「いじめ」と関連するのか。
日本のテレビで「お笑い」実務に携わってきた、それで稼いできた「大御所」の方々
は色々こだわりや信念があるのでしょうけれど、過去にそういう時代に彼らがしてきたことを
否定してはいけないのでしょうけれど、今やもう引退の時期、変化の時だと思います。
私が思うに、笑いというのは「ギャップ」なわけです。
「世間」が「ふつう」、「常識」、「正しい」と思っていることと反するとき、
ギャップがあるとき、そこに違和感と言うか、何らかの感情が生まれる。
それが笑いになったり、いじめになったりする。両者は良く似ている。
小学生のとき、デブな子やトロい子を笑い物にしていじめてた。
それは、勉強できることが偉い、稼ぐことが偉い、見た目が綺麗なことが偉い、
という価値観から外れるものに対する攻撃だったのかなと思う。
アメリカのトランプ支持層の田舎の白人オヤジのステレオタイプは似ている。
「LGBTなんて子ども生まれないだろ。子孫繁栄に寄与しない人間なんてコストだ」
「デブは自分が弱くて食べ過ぎたせいで、醜いし医療費もかさむ迷惑な存在だ」
「頭悪い奴も体弱い奴も障害者も、仕事できないんだからお荷物」
「女は子ども産んで家事をして、男が仕事した方が効率が良いのに、
なぜ女性が社会進出して管理職比率が半々にならないといけないんだ」
「アジア系なんて論理的思考力弱いし英語もヘタなのに、なんで採用面接しなきゃいけなんだ」
「肉体労働だから若い人の方がいいのに、なぜ50歳以上も面接しなきゃいけないんだ」
ポリコレ問題の難しいところは、時代と場所によっては、反ポリコレのいう
上記の反論も、的を得ているというところだと思います。
はっきりいって、食うや食わずの生存自体が厳しい原始の時代では、
障害者だったり、病人だったり、頭の悪い人は、生き延びることはできなかったでしょう。
本人に生存競争を勝ち抜く力が弱いですし、周りも自分の生存でいっぱいいっぱいで、
他者を助ける余裕なんてないからです。
でもやっぱり現代社会は基本的に違う。富に余裕があるし、生活に余裕があるし、
みんな食べ物なんて余って捨ててるぐらいで、ヒマを持て余している。
そんな時代に、原始時代の、高度成長時代の考え方に固執していないで、
最初は疲れるかもしれないけど、もっと周囲の、個々の人のこと、ポリコレについて、
もっと考えなきゃいけないと、やっぱり思います。基本的には。
差別というのは、みんな色んな意味で使っている言葉だと思いますが、
私は、意味のある定義は、差別=「過度な一般化」だと思うのです。
一般化というのは、効率化なんです。人間にとって。
白人はXX、男はXX、なんとか大学の人はXX、なんとか社の人はXX、
こういう見た目の奴はあぶない、ああいう挙動の奴はヤバい、、、等。
こうやってレッテルを貼ることでスッキリして頭の整理がしやすいし、
危ない確率の高い人のカテゴリーに属する人を避けることで、
自分の身を守ることにもなる。だから、これも一理あるんです。
しかし、ポリコレ的にいえば、これもダメだ、やめようということになる。なぜか。
多様化の中、どのカテゴリーにおいても一般化できるような統一的傾向が薄れてきている
というのも前提としてあると思いますが、基本的にやはり個人個人で見ていきましょう、
もっと言えば個人の場面場面の行動や意見で、
アウトプットで是々非々で判断していきましょう、ということです。
「XX大学出身はアホだから言ってることがおかしい。関わらない方がいい。」
という一般化をして、実際にXX大学の人と出くわしたとき、
その過度の一般化を信じて行動すると、当然お互い確執が生まれたりするでしょう。
また、その人がもしとても有用な意見を言ったとしても、そのレッテルのバリアが
あると、届かないことになり、それはお互いに不幸です。
マイノリティを守ると同時に、マジョリティをも幸せにする、
個々の意見を是々非々で考えて、良い社会をつくろうという、そういうことだと思います。
というわけで、ポリコレに話が拡大しましたが、
保毛尾田保毛男はあり得ないということ、そもそも他人をバカにするという行為自体、
良い行為であるはずがないということ。特に公共性が高い場所ほど。
そして、ハゲでも何でも、「自虐」なら良いわけではないということ。
自分のハゲをネタにするとき、ハゲは残念で醜くてダメ、という前提があるわけで、
それはつまりハゲの人全員を低くしている行為ということです。
お笑いの人が、「日本のテレビがつまらなくなった」とよく言いますが、
「子どもの頃は気楽だったし、近所のあいつをみんなでいじめて笑って楽しかったよな」
と言ってるのと同レベルです。
人生、もっと素敵な楽しみ方がいくらでもあると思います。
ダイバーシティとはやっぱり良い言葉で、
カラフルな個性が、お互いを認め合ってトレードできるTokyoに、
早くなってほしいな、と願います。