売上があがることは必ず良いことなのか。
私はどうしてもイエスと言えない。
資本主義礼讃の人々、
ロジック礼讃の人々は言う、
「売上があがるということは、提供した商品・サービスに価値を感じて、
対価を払ってくれた人がいるということだ。
価値を感じ、評価し、購入するのは社会の人それぞれなんだから、
購入者がいるということは、価値があるということなのだ。」
では、例えば、パチンコ屋は30兆円もの売上を誇るが、
それだけの価値があるものだろうか。
タバコ会社はどうだろうか。
キャバクラや風俗はどうだろうか。
ここまでは適法なものの話で、
ここまでであれば「価値ある」との意見はあるだろう。
では、違法なものはどうか。
ヤクザのしのぎ、
麻薬密売、
売春、
人身売買。
これを価値あるという人はあまりいないだろう。
売上があっても、つまり、需要があっても価値があるとは言えない、
提供しても社会的に、その個人にとっても、悪いことが起きるビジネスというのはあるのだ。
違法は違法だから話が違う、と思った方は、本当にそうでしょうか。
違法かどうかは、その時その場所における線引きの仕方にすぎません。
つまり、あくまで立法府が考える適否であり、
線引が変われば過去に違法だったものが適法になり、
売上は正当化されるのです。
つまり、本質的には、違法だろうが適法だろうが、アングラでも何でも、
需要があるけど=売上はあるけど、価値を否定されるビジネスはあるということだ。
アメリカの大学を飛び級で卒業した天才児が、
アンチエイジングのテクノロジーを起業して、またベンチャーキャピタルとして
追求し、素晴らしいと称賛されている記事を見ました。
よくある話ですが、研究者・開発者は、それが価値があるかどうか、
つまり、社会的に、人間にとって、幸せかどうかを考えずにとにかく開発する。
それは、一体正しい姿勢なのでしょうか?
みんな見た目が20代のまま100歳ぐらいまで生きたとして、
本当に幸せな社会になるのでしょうか?
不老不死になったとして、幸せになるのでしょうか?
ガンが全部治るようになったとして、みんなそれで幸せなのでしょうか?
私は大いに疑問に思います。
仮に、個人が若くいたいとか、死にたくないとかいう願いをかなえるのはまだアリだとして、
個人が他人のそういう価値観や生き方を決定するのは、幸せにならないと思います。
だから憲法では幸福追求の権利を個人個人のものとして書いているわけです。
なので、例えば子の人生の在り方、幸せを親が決定するデザイナーベイビーなんかは、
あり得ないと思います。