ブリューゲルの「バベルの塔」展が始まるそうです。
聖書のバベルの塔の話では、一か所に集まって塔を建設した人間をみて、
神が人間の言語をバラバラにし、人間は塔の建設を中止したということです。
大事なことは、こういう話が事実であったかどうかとか、そういうことではなくて、
どういう議論をして、どういう解釈が何千年となされてきたかという
解釈・意味づけ、より幸せに生きるためのヒントを探ることです。
単に言語が現在たくさんあることを理由づける神話、で終わらせていいのか。
それだとちょっと意味が薄い。
では、どうして人間は塔を作ろうとしたのか。
どうして神はそれをやめさせたのか。しかも言語をバラバラにするという方法で。
人間が世界の一か所に集まった。
それは、みんなの力を結集した方が、色んな事、より大きなことができるからだろう。
では、なぜ塔だったのか。ただ一か所に寄り集まるだけなら、
バベルの街とか、せいぜいバベルの城とかで良かったのではないか。
でも塔ということは、何か意味があるはずだ。
塔は高い。
高いということは、天に近付く。
それは、地上を見下ろし、神に近付くということの象徴かもしれないし、
ヘタをすれば落下・崩壊して死ぬということでもある。
これはどうしても、みんなでひとつのものを目指して、
「上」を目指して人類が行動することへの警鐘としか思えない。
絶対王政に権力が集中しすぎて革命が起きたこと。
天皇に権力が集中しすぎて侵略戦争を引き起こし悲惨な敗戦をしたこと。
経済のグローバル化、成長資本主義が行きすぎて反グローバル化の揺り戻しが来ていること。
どれもが浮かび上がる。
どうしてそれは駄目なのか。
塔の上は空。宇宙。どこまで行っても際限はない。
つまり、永遠に満たされないゴールなのではないか。
それを追い求めて高いところに行けばいくほど、
大地から離れ、多くの人から離れ、空気も薄くなり、寒くなり、
虚しくなり、孤独になり、落下して死ぬ可能性が高まる。
下にいる者は、上にいる者を妬み、その負の感情が極まれば、
下から塔を破壊するかもしれない。下の階が崩れれば、塔は全部が崩壊する。
それは、塔の上にいる者にとっても、下にいる者にとっても、
ちっとも幸せではない。そういうことではないのだろうか。
みんなでひとつになって際限のない欲望を追求しても、
ちっともいいことはないということ。
まさに成長資本主義そのものだ。
神は、それでは誰も幸せになれないから、
上下にまとまるのではなくて、
横に散れと言った。
塔は、敷地面積は狭い。
その塔に詰まっていた人たちが散るということは、
物理的に広範囲に人が暮らすということだ。
それをよしとするということは、
地理的に分散した方が人類にとって良いということだ。
なぜか。
それは、まさにポートフォリオの分散という金融理論と同じく、
全滅リスクを低下させるためではないか。
一か所にいたら、天変地異や、不作や、疫病で、みんな死んでしまうかもしれない。
でも、東西南北、暑いところ、寒いところ、高いところ、低いところ、
色んな場所に人類が散れば、短期間に全滅する可能性はグッと減るだろう。
さてそして、どうして言語までバラバラになる必要があったのか。
英語、中国語、ヒンズー語、アラビア語、フランス語、ドイツ語、日本語、等々。
地理的に分散すれば、自然と言語も分かれていくということなのかもしれない。
また、言語すなわち、文化や考え方、価値観そのものということかもしれない。
みんなでひとつの価値観・欲望にとらわれるのではなく、
それぞれ分散して、それぞれの暮らしをするのがいい、
そういうことを言っているのかもしれない。
さあなんだかナショナリズムっぽくなってきた。
いや、これは、悪い意味でのナショナリズムを肯定しているわけでも、
資本主義を全否定しているわけでもないと思う。やはり。そこは要注意なのだきっと。
それぞれの地の人が、情報交換することは否定していないだろうし、
旅行や移民が一切駄目だとは一言も言っていないだろう。
資本主義というシステムを用いて、ある程度衣食住に困らない暮らしをすることや、
それを目指すことは、まったく否定していないだろう。
むしろその分散、ダイバーシティと、相手を尊重した議論があれば、
人はもっと幸せになれる、神に近づけるという、そういう話かもしれない。