聖書のいわゆる、「山上の垂訓」で、
「誓ってはいけない」という教えが出てくる。
「偽りの誓い」を立てるのは当然ダメだけど、
ふつうに神に誓ったり、エルサレムに誓ったり、自分に誓うのもダメだと言う。
「あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。」とある。
これをどう解釈するか。
たしかにわたし達には、こうしたいという願いはあるが、
現実的にはそうできる力など自分にはない。
世界から一切の犯罪が消えればいいと願っても、実現は難しいだろう。
出来たとして、するとして、それは神の仕事だ。
「絶対に大統領になってみせる」と意気込んでも、
それは自分で決められるものではない。
「私はもう絶対に他人に迷惑をかけないと誓います」と言っても、
それも叶わない。生きてる以上、他人に迷惑はかけ続けるのだ。
そもそも迷惑とは何か。食べる以上、他の生物を犠牲にすることは避けられない。
食べもの以外でも、微生物を含めて、一切殺さず生きることなど不可能だ。
つまり、誓いを立てる=絶対に○○する(しない)、と自分で決めたところで、
実現はほぼ不可能だろう。全体で見れば1パーセントぐらいは実現するかもしれないが、
99パーセントは実現しない。つまり、99パーセントは、誓いを立てた瞬間に、
嘘をつくことになる。出来もしないことを、コントロール出来ないことを、保証することになる。
これは、偽証と同じではないか。
一生懸命願う方向に努力することは否定されていない。
でも、必ずそうするとか、絶対にそうすると言うことは、傲慢なのだ。
そんなことは、自分ではコントロール出来ないことなのだ。
コントロールできないのに宣誓してしまうと、達成しなければと過剰に努力するようになり、
人生が辛くなる。そして、結局達成出来なかったとき、落胆し、自分の人生は何だったんだろうと
絶望し、酒に溺れ、薬に浸り、死ぬ。
自分にも良いことはないのだ。
しかし、こういう負のループに陥っている人、日本の、特にエリート層、には多いと思う。
バリバリのビジネスパーソン、アスリート、舞台を目指す人、、、。
結局、自分の周りを見ると、本当にその世界で達成している人は、
好きで、楽しんでやっているような気がする。
トップになりたい、成功しなきゃ、金持ちにならなきゃ、
という、結果に対する願望だけだと、プロセスが本当に苦しくて、
達成出来なかったときに本当に人生が終わってしまう。
遠くの建物を目指して歩くとき、
ゴールすることだけを考えてると、気が遠くなって苦しい気持ちになる。
でも、移り変わる景色を感じたり、歩いている自分自身に喜びを感じつつ歩くと、
いつのまにかゴールは近くなる。仮にたどりつけなかったとしても、悪い気分はしない。
だから最近思う。ロジック系の人たちが言う、
「まずゴールを決めろ。そして最適な戦略を決めて、実行しろ。」
「結果がすべて。」
は、本当に正しいのだろうか。
人生は、プロセスそのものだと思う。
仕事で結果が出るのも、ちゃんとしたプロセスを踏んだときだろう。
ちゃんとしたプロセスを踏んでも、運があるから、結果が出ないときもある。
だから、結果に一喜一憂しないで、とにかくプロセスを重視することが重要なのではないか。
コントロール出来ないはずの結果を無理矢理出そうとすると、東芝のようになる。
好きこそものの上手なれ。
人事を尽くして天命を待つ。
エグザイルの歌詞で、
「必ず夢を持つとか、背負わなくていい、ただ生きよう」
というのがある。けっこう真理をうたってる。