アマゾンのジャングルの中を260キロ、一週間かけてやる過酷なレース、
そのドキュメンタリーを見た。
暑くて痛くて辛くて、でも最終日に完走した参加者はみんな幸せそうで、
とてもイキイキしていて、輝いていた。いきがいを感じているようだった。
すごい達成感なのだろう。
どうしてなんだろう。
何も生み出さない無益なことであっても、
目標を設定して、苦しんでそれを目指して、達成すると、
すごい快楽が得られる。
そしてそれを目指して頑張っている人の姿が、輝いて見える。
どうしてなんだろう。
そしてそういう人は、強い。
ゴールは困難であるほど達成感は大きい。輝きも大きい。
でも、そこに意味はなくてもいい。
過酷なアマゾンのレース。
エベレスト登頂。
テニスのグランドスラム制覇。
オリンピックの金メダル。
東大合格。
見る人に感動を与える場合はあって、それがビジネスに結びつくこともあるけど、
基本的にはこれらは何も生み出さない行為だ。
農作物を育てたり、家を建てたり、料理をする方が、
生きるためにはよっぽど重要なはずだ。
なのにどうして、人は目標の設定と達成に喜びを感じるんだろう?
どうして脳はそういうつくりになってるんだろう?
元々はマンモスを倒すとか、
水を汲むとか、
魚を釣るとか、
そういう生命に直結した目標の達成を支えるために、
脳がそういうつくりになったのだろうか。
だとして、一見無価値な目標に取り組んで達成感を味わうというのは、
ただの贅沢なのか。暇つぶしのあそびってことなんだろうか。
それは否定できないだろう。
だとしたら、生命に関連する価値以外を追求するストイックさは、
純粋にエンターテイメントとして賞賛されるべきで、
全人格的にすぐれているとか、そういうひとが出世するとか、
そういうのはおかしいってことになる。
もうひとつ、考えられるのは、一見無価値なことかもしれないけど、
人類がみんな何か高い目標に取り組んで記録を伸ばして行けば、
トータルでみて人類の可能性がどんどん広がって、
ダイバーシティが広がって、繁栄する、という、
種の戦略なのかもしれない。
これも否定できない。
とにかく、明確で、困難な目標であるほど、
それに向かう人は輝き、達成感は大きい。
それを活かさない手はない。
しかし、現実の個の生活を破壊するほどのめり込むのは、
どうかとも思う。それは生き方次第だけど、
例えばエベレストに借金して出掛けて、
妻と幼い子を残して遭難して死んでは、
残された者は困るだろう。
その辺のバランスは必要だ。