日本人って、テレビで言ってること、広告で言ってること、
社会的地位がある人が言ってることを
すぐに真に受ける、妄信する人が多い。
だからテレビ局や広告会社が儲かり、街には宣伝や看板があふれ、
医者や学者の書いた本が売れる。
誰が言ったかが重要であり、中身を批判的に吟味することはあまりない。
ユダヤ人が聞いたら笑うだろう。
しかも最近は、誰が言っているかすらもあまり関係なく、
どこの馬の骨とも知れない変な奴が書いた本でも、
書店に並べば、いやネットの検索にヒットすれば、買う。
SNSはちょっと違う。
みんな自分の仮説を擁護する意見を探している。
自分の味方を探している。根拠を探しているわけではない。
そして膨大な数の意見があるから、大体それは見つかる。
つまり、根拠なく、どんな自分の考え方、意見でも納得して自信をつけることを助長する。
これは大変恐ろしいことだ。
だったら医者や学者の話を真に受けてもらっていた方がはるかに安全だ。
つまり、誰が言ったかはそれなりに大事だが、
本当は個々の中身を吟味することが大事だ。
しかし歴史については、個々の中身を吟味することが難しい。
聖徳太子が実在したのか、江戸時代の雰囲気はどうだったのか、
基本的には書物からしかわかりようがない。
私たちはたいてい、学者やらが研究してまとめた本を読んで歴史を学ぶ。
個々の研究を全部自分ではできないから、学者を信じるしかない。
でも、学者がちゃんと適切に調べて書いてるかはどこまでいってもわからない。
訳がおかしいかもしれないし、推測が含まれているかもしれないし、
バイアスがかかっているかもしれない。
もっといえば、研究のもとにしている古文書そのものすら、
事実が書いてあるかどうかは不明だ。
つまり、「歴史」というものは、相当あやしい。
ふーん、そういうことだった可能性もあるね、ぐらいのシロモノかもしれない。
ちなみにフィクションの漫画や歴史小説やドラマを、
そのまま事実だと信じて熱く語るバカが多いが、
そんなのは論外である。
ただ、歴史上の「ファクト」は相当あやしいが、
「考え方」はまぎれもなく正しい。
つまり、古文書にあるものの考え方は、まぎれもなくそれが書かれた当時あったもの
であり、書かれた文字や表現も当時あったものであることは間違いない。
だからその点、過去の文学や哲学書、宗教書、法律などは大いに研究する意義があり、
人間関係や因果関係、経緯、物質的な歴史、数字などは、大いに疑う必要がある。